1円もお金にならない知識なら、山ほどある、編集、小田です。今日のブログは、なんの為にもならず、だれが救われるわけでもなく、かわりに、なにを告知するわけでもない。小田が書きたいから書く!という「青春グラフィティ」にすぎません。要注意を・・・・
いまから、20年ちょい前、原宿、キャットストリート。
当時僕は、歩く『BRUTUS』と呼ばれていた。
いや、誰も呼んじゃいないのだが・・・汗
その位、洋品やユースカルチャー、とくにモノ寄りに明るかった。
当時は、雑誌「MR.High Fashion」が絶版になる前で、これを切り抜いては、ファイルに保存していた。みうらじゅんの「エロスクラップ」のように、ちくちくページを切り抜いては、ファイルしていたのだ。
ファッションの中心は当時、アントワープ。
ドリス・ヴァン・ノッテンの英国チックな服飾の一枚のグラビア写真がきっかけで、僕の全身の血液が入れ替わり、立派な英国かぶれが出来上がった。
20代半ばがすぎると、拍車をかけて洋服・洋品代で散財。当時はアントワープのモード服、並行して英国の小さなメーカーの服を追った。
幸いヤフオクが普及しだして、欲しいものは手当たり次第手に入った。最初に落札したのは、なぜかスケボーだったが、二番目に落とした、「ドクターマーチン」(英国のおされ安全靴)はいまだに持ってるぜ。
英国のすべて、英国のファクトリーメーカーのすべてが好きだが、とくに新婚旅行で買った、クロケット&ジョーンズのコニストンブーツを家宝にしている。
新婚旅行。日曜日やバンクホリデーがかさなって、ロンドンの店は閉まっていた。帰国の午前中、当時まだ優しかった嫁が時間をとってくれたのさ。おれはラヴェンズコート・パークのホテルをとびだし、ロンドンまで。そしてジャーミンストリート(紳士服飾の聖地)を駆け抜けたってわけ。
原宿・代官山・表渋谷のあらゆる店を知っていて、なかでも、裏原宿にあったロータスというカフェの先にあったDUPEという店が僕にとっての聖地。そうガンダーラよ。まだインポートで数の少なかった。ダファーオブセントジョージを収集するのが愉しみだった。
数年後、ワールドカップで、デヴィッド・ベッカムが時の人になったとき、僕と同じダファーのパーカを、彼が着ていたのが嬉しかった。
モノ持ちがよく、いまでも相当良い状態で保管している。
はたまた、モード服の方だが、マルタン・マルジエラやドリス・ヴァン・ノッテンにあこがれ、青山のフロラシオンホテルに前日泊まって、アサイチでセールに行ったもの。そんな必要ないのだが、若かりし、そういうことをしたかったのだろう。ドリス・ヴァン・ノッテンでは、カードの限度額が数度振り切ったのだが僕は幸せだった。
その後もUKストリートの誰も知らない服を集め始め、池の上駅のお直し屋にリメイクを大量に持ち込んでさらに散財。その果てには、ハンズで買った染め粉を、でっかいバケツに熱湯と食塩をいれ、自分で染め始めるのにハマった。当時の通勤スタイルは、カリマーのシルエット33というレアなドでかいアウトドアバックパックで、靴はデザートブーツだった(これは今も)
当時の出版社の女社長が「オダ君、おまえさんは山にでも行く気か」と赦してくれた。僕は嬉しかった。
当時の僕はド級のアホで、アニエスの一番小さいピッタピタのスーツとカスタンジアというサルデニア島のテーラーの20万のスーツを身分不相応にも交互に着ていた。高級かどうかは興味なく、美しいかどうかが重要だった。そのどれも20年ちかく、今も綺麗に持っている。
ある日、ジル・サンダーで試着したコットン・スーツは25万だった。1か月分の給料が一瞬で消える値段だ。危うく買う所で、、、どうにかこうにかこらえたが、あの生地の美しさ、今でも忘れない。買っておいてもよかったのかもしれない。骨董通りを過ぎるとき、20年たったいまも、あの日、試着室の中で映った僕のスーチングスタイルを回帰するのである。
嗚呼、青山よ。嗚呼、ファッションヴィクティムになぐさめを。。
(次回「女王陛下はフライフィッシングがお気に入り」につづく。)
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