先月、母方の祖母が亡くなった。98歳。
最後の10年間は施設で夢の中にいた。意識はあるが、話せず、目も合うか合わないか、起きられず、管につながれて、それで、10年だ。辛かったろうと思う。
僕は三兄弟の次男で、理系の長男、三男とちがい、文学部哲学科卒の浪花節、感動しぃ。百恵ちゃんの「秋桜」など、サビ前に泣いてしまうほど。もちろん、大好きな祖母の見舞いに3ヶ月に一度は行っていた。
最初はすこし呆けていたくらいで元気だったから、見舞いもたのしく、すこしずつ大きくなっていく、子どもを見せて笑っていた。その後うつった終末期の病院は、子どもが入れなかったから、見舞いは、無言の祖母と僕の、二人きりの対峙となった。
祖母は、暴れん坊だった祖父と対照的に、家庭的で優しく、褒めることしかしなかった。日光の修学旅行のお土産を取り違えて渡してしまい「じつはこっち」と渡し直しても『お土産のセンスのある子だと』目を細めた。
祖母の家には黒板があって、そこでモノを書いたり漢字を書いたり(怪獣という字を覚えたのもその黒板であった)プラモをつくったりしても、『頭がいい子だ とっても器用な子だよ』と必要以上に褒めてくれた。
すこし大きくなってからも、母の代わりに、サッポロ一番の塩ラーメンを何度も作ってくれた。祖母は「愛情」の具体化だった。
祖母が60歳のころ、風邪か何かで、咳き込んでいたのをみて、幼い自分は「その時」が来たのではないかと恐怖した。いま思えば、60歳くらいで死ぬわけもないが、当時の60歳といえば、世間では立派な「おばあちゃん」だったから。
その後も、祖母は「愛情」の具体化で居続けてくれた。僕が31歳で挙式をあげたとき、祖母にだけ特別なプレゼントを用意した。ラルフローレンのニットはその後、母が、「かぶり物は着たり脱いだりが大変だから・・・」と前開きにリメイクしてくれた。僕の家は、元ブティックのその後、内装屋だから、そういうのはお手の物だったんだ。
34歳のとき長男が生まれた。僕の三兄弟では祖母にとって最初の孫。これはタイムレースになった。日々、呆けていく祖母。その祖母の記憶にとどめたいと願う僕。かけこんで、生まれたばかりの長男を見せたけど、喜んでいた記憶を、祖母がどこまで保持できたのかは、もはや誰もわからない。ただ救いは、来年中学になる長男が、施設に見舞いに行ったことをほのかに覚えてくれていること。祖母に長男を見せることが、なぜか、ぼくにとって、ひどく大切で、幸せなことだったから。「あの時は、たのしかったね」と、いまでも声に出さないまでも思う。祖母は元気で、長男もかわいかった。
祖母が亡くなって、病院に駆けつけたのだが、その直前にもお見舞いしていたからか、事実は割とすぐに受け入れられた。ただ、10年くらい、もう話せなかったので、僕は祖母に感謝のようなものを、ちゃんと伝える機会を逸してしまっていた。それは心残りではあったけれど、98年も生き抜いたのだ、それだけでなんというか、同じ人間として、誇らしく、また哀しいけども満たされて思うのだった。
葬儀はシンプルで近親者だけ。はじめて「亡くなった人」を見る僕の長男と次男に、人生についての大切なことを伝えるいい機会になった。子どもというのは立派なもので、こういうときでも彼らなりの、おもんぱかりと、神妙さで、親の協力をしてくれる。親の力になろうと、健気にもするものだ。それが、なんとも愛しかった。
仕事柄、ヒーラーさんや占い師、セラピストさんの原稿に毎日出逢う。施術やセッションの体験も何度も経験があるけど継続的に通ったことはない。ただ、ひとつだけ、いま継続的に通っているエネルギーワークが月に一度あるんだ。
つい先週のことなんだけど、そこで、「僕へメッセージがある」と言うんだね。ちょっとスピリチュアル的に見えるけど、このセッション、わりと現実的なものなんだ。誤解なく。するとその「メッセージがある」人というのは祖母だという。それが誰かどうかは、Oリングで否応なく限定されるんだ。「気のせい」ではないわけ。祖母かぁ、、、
なにか、やさしい言葉をかけられるか、なにか、励ましを送られるか。元気にすごしな、と笑いかけられるか、はたまた、もっと気楽に生きろ、となだめられるか、身体を大事に、とリアルな切り口か、、、
そんなことを思っていた。セッションは続く。僕が祖母のメッセージを100%受け取れるように導いてくれる。いろいろなメッセージを受け取った後、やがて、その祖母が伝えたいメッセージの100%に行き着く。そこで聞いた祖母の言葉は、「ありがとうよ」だった。
ひとは、伝え忘れた感謝に悔いる。それでいて、受け取るべき感謝には「いやいや」とちゃんと受け取らない。それは人の謙虚さだし、愛かもしれない。ただこの日、「受け取るべきもの」をしっかりうけとって、人生が整うことがある、ことを身にしみたのだ。
祖母の生前には、同様の感謝の言葉をきいたことは何度もある。ただ、寝たきりになって10年間、祖母は話せなかったから、もうしばらく言葉を聞いたことはない。目の焦点も合わなかったけれど、祖母は僕を見ていたのかもしれないね。そう思うと、この「ありがとうよ」は重かった。いや、孫が見舞いに行くなんて当然のことさ。意識があろうがなかろうが関係ないよ。なぜか、そんな俺を知っていてくれていたのかも、と思って、泣きそうになったんだよね。ただ、まぁそれは、歳を取ったゆえの涙腺のもろさから、かもしれないけれど。
Clover出版代表取締役社長兼編集長
小田実紀
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