「マヤ暦メッセージ」を、アメブロで毎日更新し始めて、はや五年が経ちます。
ブログを始めた当初から、具体的な占い要素を色濃くはしないで、その日の流れを淡々と綴ってきました。
それは現在も変わることのないスタンスで、誰かのために発信し続けているという使命感でもなく、純粋に「明日の持つ要素」を予習しながら日記に書いている感覚に近い、それが私の考える「マヤ暦メッセージ」になります。
今日という一日の流れが、「マヤ暦メッセージ」を読んでくださる誰かの、何かを成すタイミングと重なればいいなぁ~、なんて…時折感じることもありますが、それでも地球上でその日流れるエネルギーは、きっと誰に対しても同じものを味わいやすいということ。そのことを日々指針として、どなたが読んでくださってもいいように、誰かのマヤ暦というよりも、地球は今日どんな気分なのだろう?と、地球を擬人化してメッセージにしております。
地球も偉大な生き物であるという捉え方ですね(笑)まぁ…この捉え方は、人によって好き嫌いが分かれると思いますが(苦笑)
マヤ暦では一年間という日の流れが260日で区切られていきますが、それらは、普段私たちが生活する一年間(365日)という単位とはまたちがうものです。
マヤ暦(ツォルキン暦)には、誰しもがひとりひとり持つ背番号のような数字「キン」というものがあります。そうして、それに付随するように「紋章」「ウェブスペル」というもの、それから「銀河の音」という数字も持ち合わせられています。当然、マヤ暦メッセージを日々更新していると、誰かの持つ背番号の日にも重なります。地球が持つその日の流れと、ご自身の持つ背番号が同じ日であれば、より特徴が似通っているとも解釈できるので、260日間に一度そういう日が訪れたら、注意深くその日を観察してみるのも興味深いのではないでしょうか。
宇宙の叡智、その流れを表すマヤ暦(ツォルキン暦)は、宇宙のリズムをベースにした時間体系であり、自然の流れにも調和しています。だからこそ、月の満ち欠けや、海、山、風、など自然のリズムに合わせたものであり、人間と調和したサイクルなのです。
でも…自分自身に関わる日、そのたった一日だけに目を向けてみようとすれば、マヤ暦全体の流れ(毎日の流れ)を感じながら過ごしていくうちに自然と培われていくマヤ暦と自身の不思議な一体感は得難いのかもしれないなぁ…とも私は感じています。だって私たちは、マヤ暦という毎日変化する時間の流れの中に過ごしているのですから。
自分自身の背番号(キン)だけを知っただけでは、例えるなら…大きなお皿の中にあるほんの一粒の豆を目隠しで味わっただけのようなものではないでしょうか?
お皿全体を見渡して、その中にあるいろいろなものを味わってみれば、自分の好きなものや嫌いなものを知ることができるし、彩りや香り、温かさや冷たさ、なによりも…それはどういうメニューなのかを理解することができると思うのです。
もし、マヤ暦でご自身の「キン番号」を知る機会があれば、ぐるりと見渡すように、ご自身の大切なひとの「キン番号」も知ってほしい。そうして…大切なひとの持つ流れを、そっと感じてほしいのです。
マヤ暦が教えてくれる特徴が、あなたの知る大切なひとの特徴とズレを感じたとしたら…また別の一面もあるのかもしれないということなのです。それはもしかすると、大切なそのひと自身でさえも気づいていない部分…?人間関係は表に見せ合うだけじゃ量ることのできないもの。その互いの違いを緩く見渡すためにも、マヤ暦の叡智に触れてみるのはひとつの学びと言えるのではないでしょうか。
マヤ暦の「その日の流れ」というもの。
過去に遡ると…様々な忘れられない日が存在します。
私は宮城県に住んでいますが、やはり…東日本大震災の日は…とても強い記憶。私がマヤ暦を身近に感じるようになる、それは以前の出来事でした。その東日本大震災当日の「日の流れ」をマヤ暦でみてみると、
キン(77)太陽の紋章(赤い地球)ウェブスペル(白い世界の橋渡し)銀河の音(12)
銀河の音12は、分かち合い、収束させる役目があります。
因みに…ツォルキン暦の流れは、260日間を52回ずつ5回転します。
キン77にあたるその時期は、そぎ落とすという意味合いや忍耐を必要とされることがどうしてもある、鍛練と試練の時期でした。自分自身の感じ方で、これらの要素を解釈してみること。ご自身の背番号が、キン77をお持ちの方もいらっしゃいます。
地球の気持ちと、一人間の気持ちは、同じく語れるものではありません。それでも、日々積み重なるエネルギーをどれだけ分散させられるかで、その日(そのひと)の負担は変わっていくのでしょう。
マヤ暦というもの。単なるツールとする?
日々のエネルギーとして探究してみる?
ぜひ、自分らしい向き合い方を!
黒田充代
宮城県在住
目に見えるものと目に見えないもの。世界に溢れる陰陽両極のバランスを、独自の見渡し方で捉えなおし、どんな現実も「私らしく」受け入れる中庸の心で生活している。
著書:私は、悲しみも劣情も、静やかに眺める。(Clover出版)
準備中